9回の裏、2アウト。

今年の甲子園も残り一試合。

今年もたくさんの試合が繰り広げられ、
さまざまなドラマが生まれている。


しかし、僕にとって甲子園といえば、ある年の大会をいつも思い出す。

1998年、あれは小学5年生の夏。

蝉がけたたましく叫ぶ、昼下がり。

蝉の声に負けじと声を振り絞る、アナウンサー。


ブラウン管の先に広がる緑色の芝、茶色のグラウンドの上に白い線を描く、一人の投手の指先から放たれたスライダー。


歓声に沸く、甲子園。

ちょうど、横浜高校春夏連覇を成し遂げた瞬間だった。

小学5年生

僕が少年野球を始めたのは、小学5年生の秋。

夏に見た、夢のような試合がきっかけだった。


PL学園、延長17回の熱戦。
明徳義塾、終盤8、9回の大逆転。
京都成章ノーヒットノーラン

当時、某パワフルなプロ野球ゲームで野球に対して興味があった小学5年生の僕にとって、
マウンド上で一人強烈に異彩を放つ松坂大輔は憧れ以外の何者でもなかった。

仮にその数ヶ月後、激しい後悔の嵐に見舞われることがわかっていたとしても、
このときの気持ちを止めることができたかどうか、わからない。


大会が終わってすぐ、僕は少年野球を始めることを決意した。

挫折

始めてすぐは野球ができるのが楽しくて仕方なく、喜び勇んで練習に参加していた。
今思えば恥ずかしい話ではあるが、毎日自分の活躍する姿を思い浮かべては眠りについたものだった。

しかし、現実というのはそれほど甘いものではなく、
初めて先輩後輩がいる環境、強烈な指導者のいる環境に慣れることができず、
次第に野球をすることすらも楽しくなくなっていった。

さらに、当時の僕は今以上に小心者で、先輩に何か小言を言われる度、監督、コーチに怒られる度に萎縮してしまい、
さらにミスを重ねて怒られるという悪循環に陥っていた。


基本土日の練習が主であったため、月曜日が一番気分が軽く、週末に向けて次第に気分が重くなって行ったことを今でも鮮明に思い出せる。
病は気から、と良く言われるが、まさしくそれを体現するかのように百日咳のような症状に陥り、咳は止まらず、通学のときに毎日吐いていた。

ある日の帰り道、後輩に「野球辞めたくなったことある?」と聞いたことすらある。


思えば、これが人生で初めての、そして最大の挫折だった。

挫折と、

何度も何度も押し寄せてくる辞めようかと思う時期を通り越し、夏が来て、冬が来て、6年生も終盤に差しかかった。

どれだけ下手くそでも、監督達は僕をレギュラーとして使ってくれた。(6年生が少なかったというのもあるが)

関西で優勝した先輩達ほどではなかったが、
地味に小さな小さな地区では優勝をしたこともあった。

別の野球チームの友達もできた。

もう、終わりだと思うと、さすがに寂しくなった。

最後の打席は、確かサードゴロだった。

最後の試合は、エラーをしなかった。

色々あったけど、最後までやり通した。





おおきく振りかぶって

僕の所属している研究室には、ソフトボール大会や野球大会がある。
少年野球ではヘボのヘボのヘボだった僕でも、多少の経験があるだけでアドバンテージになる。
前期も前の研究室と共同でソフトボール大会に出るなどし、久しぶりに熱くなったものである。


その影響か、先日ふと「おおきく振りかぶって」という野球のアニメを見た。


このアニメの内容自体の説明は省かしてもらうが、
印象に残ったシーンがある。


それは選手の母達が試合に来て応援していた所である。
母達は朗らかに「〜君は良く打つ〜」「〜君はしっかりしている」などといった会話がなされていた。


ハッとした。


少年野球でも、練習や試合の応援に保護者が駆けつけるのは通常である。

僕の母も例外ではない。


今までは気にならなかったが、そのとき母はどのような会話をしていたのだろうか。

打席に立てば三振してチャンスをつぶし、
守ればエラーをしてピンチを招く息子を見ながら、

チームに迷惑をかける息子を見ながら、

母はどのような気持ちで応援をしていたのだろうか。



きっと、居心地が悪かったに違いない。
あの母のことだから、他の保護者に謝っていたに違いない。

それでも、

そのような振る舞いは僕には微塵も見せることなく、

応援し続けていてくれたのだ。

三振をしても、エラーをしても、応援し続けてくれていたのだ。

現在

たまに電話が来る。

父の携帯からだ。

しかし、その声はほとんどが母である。

携帯を持たない母は父の携帯を借りて電話をかけてくる。



近況はどうだ、たまには帰ってきなさい、いや、先週帰ったやん。





今は、昔に比べて三振することも、エラーをすることも少なくなった、はず。
母も、恐らく喜んでくれる機会は多くなった、はず。

昔持っていたバットとグローブは、紙とペン(むしろディスプレイとキーボード)になってしまったけれど、
立つ舞台は変わってしまったけれど、
小学生時代よりも、少しでも孝行はできているだろうか。


ススメ

毎日辞めたいと思っていたあの少年野球があったから、自分の無力さを知り、
時を経て、親への感謝の念を改めて感じた。


その少年野球をやり通したから、
今でもたいていのことは乗り越えられる。


良い結果を残せることは良いことである。
しかし、良い結果を残せなかったからといって、
必ずしもそれが無駄な期間であったとは限らない。



たとえしんどくても何か物事をやり通すことの大切さ、
そしてそれに取り組むときに、
話を聞いてくれる人の存在、喜んでくれる人の存在、励ましてくれる人の存在の大きさ、


そんなことに改めて気がついた、8月の某日でありました。