論理インデックスを用いた行抽出

matlabを使っていて、たまに「hoge列の値が正の行を取ってくる」とかいう操作をしたくなる時がある。

これくらいの要望だったらif文を書いてもいいのだけど、個人的にmatlabでは不要な所ではfor文を使いたくないし、

hoge列目の値がhugeで、homu列の値がhamuの行」とかなってくるとコードがすごい汚くなってくる。


そこでmatlabの便利機能に論理インデックスというのがあり、今回はそれを用いた行抽出プログラムをメモ。

    • matrixの一列目がindex1で、二列目がindex2である行の抽出
logIndex1 = (matrix(:,1) == index1) & (matrix(:,2) == index2);
//論理インデックスの種を作る。

logIndex2 = repmat(logIndex1, 1, COL_NUM) 
// COL_NUMはmatrixの行数。sizeでとってきてもよい。
// ここで一行の論理インデックスをmatrixのサイズと合わせる。

row = matrix(logIndex2);
//最後に1の部分だけを抽出。

もちろん一行にまとめて

row = matrix( repmat((matrix(:,1)==index1) & (matrix(:,2)==index2), 1, COL_NUM));

とも書けるけど、可読性も考えると個人的にはちゃんと分けて書いた方が好きだったり。



もちろん、もっと賢いやりかたもあるかもしれないけど。。。

しかしmatlabは便利だ。。


[参考]
http://ichiro-maruta.blogspot.com/2009/07/blog-post.html

紫陽花

梅雨真っ盛り、というわけでもないですが、

京都もほどほどに雨が降っています。



この時期の楽しみといえば紫陽花と蛍。

というわけで、先週の土曜日に紫陽花で有名な三室戸寺へ行って来ました。

出町柳から京阪で三室戸までおよそ30分程度。
駅からはてれてれ15分ほど歩いて到着。

駅で降りたときはほとんど人がいなかったのでちょっと「時期外したかな?」と不安に思いましたが、
三室戸寺に到着してみるとなかなかの人出。


天気も当初は大雨の予報だったのに、なぜか気持ちのいいほどの晴れ。


入ると予想以上の広さで、
紫陽花はもちろんのこと蓮とか梅(これらは季節が違いますが)もあって、いろんなシーズンでも楽しめるものだと思います。


紫陽花園は見渡すかぎり紫陽花が咲いており、先週、今週あたりがちょうど見頃というかんじでした。

色も様々で、一年分の紫陽花を見た感じ。

上にも書いたけれど、次は7月になると蓮の季節なので、余裕があればもう一度来てみたい。

帰りはそのまま歩いて宇治まで行き、宇治観光をして帰ってきました。



さらに、その日は下鴨神社で蛍火の茶会なるものがあったので、
去年に引き続き今年も参加してきました。


そこでまさかのid:kiyoheroさんに遭遇するなどのハプニングもありましたが。。。

蛍の放流直後はみんながフラッシュたいたり、子どもが蛍をつかみどりしたりとあまり風情はありませんでしたが、

もう少し待って糺の森の東側の小川沿いに行くとたくさんの蛍が見れました。




やはり京都は季節に応じてこういう素敵な祭りがあるのが良いですね。

次は御手洗祭とかかな。

初春凛々

前回の日記にも書いたけれど、

3月29日、第一志望の企業から内々定をいただき、就職活動を無事に終了することになった。

内々定先は某通信系企業の研究所。
人生の大きなターニングポイントでもある就職活動を、
個人的には最高の形で終えることができた。



いきさつ

1月中旬にあった専攻の中間報告会を終えてから本格的にスタートした就職活動。

就職「超」氷河期と揶揄される今年度の就職戦線において、
一般的に見たら出遅れの時期だったらしい。

周囲のもあまり開始していなかったことも有り、正直少し油断していたこともある。

しかし、さすがにまずいと思い始め、自己分析もままならぬまま、「就職しなければ」という一種の強迫観念に駆られるようにとりあえず説明会を予約することから就職活動を始めていった。


後輩から「先輩ずっと研究室いますけど就活してます?」と言われる程度には研究室にも顔を出していた。


様々な葛藤や中だるみを経て、結局ESを提出したのは10社。


先にあった東日本大震災の影響もあってそのうち6社ほどは選考が延期になったが、
第一志望の企業は多少遅れつつも予定通り選考が進んだ。

そして面接を2回受け、先日29日内々定の連絡を受けるに至った。
第一志望の企業に最初に内々定をいただいたため、結局他のほとんどの企業はESの結果すら待つこと無く就活を終えることになった。





支えること支えられること

就活に対して後ろ向きだった僕が前を向いて取り組み、
「就活嫌やー」が口癖であった僕が、多少中だるみつつも最後まで手を抜かずにやり通せたのには、
一通のある手紙の影響がある。

それは既に卒業して社会人として働いているサークルの同期の友人から、年賀状への返信という形で送られた手紙だった。

手紙には、その友人の今後のことに加え、最後に

今年は就活やね。
自分と向き合って、最良の道を進んでください。
応援してます。
またいつでも話しましょう

とあった。

その友人は3回生の頃、就職活動で悩みに悩んで、
最終的には第一志望である、本人にとって「最良の道」と思える道に進んでいた。
幾度か、僕も相談に乗ったことがある。




当時の友人に比べれば、僕の就職活動とはなんといいかげんなものか、と思うようなものであった。

正直、どっかには受かるだろう、程度のものとしか考えていなかった。


しかし、この手紙を読んだとき、
こうやって応援してくれている友人に胸を張って、



「最良の道が選べたよ」




と言えるような就活をしたい、と思うようになった。



僕がこの友人の就職活動に対してどれだけ貢献できたかはわからない。
しかし、この手紙は間違いなく、今回の就職活動において大きな位置を占めていただろう。




最良の道

「最良の道」

なんて不確定な言葉なのだろうかと思う。

たぶん、良い道、悪い道なんていうのは何十年後か、
もしくは死ぬ直前にでも自分の人生を振り返った際に判断できるものなんだろう。
それはまったく確かなことだと思う。
だから、最良の道なんて今の段階でわかるはずもない、という言葉にも特に反論するつもりはない。



ただ、経験上一つ思うのは、
重要なのはどの道に進んだかではなく、
その道を選ぶ時、どれだけ悩んだか、どれだけ真剣に取り組んだかである。
綺麗事であるのは重々承知しているが、僕はそれを今まで何度も思う経験があった。


だから、その友人がどのようなつもりで「最良の道」という言葉を使ったかは解らないが、
個人的に最良の道とは、できうる範囲で最大限自分に向き合い、悩み、努力した結果に得られた道であると感じている。
もちろん、それが第一志望の企業であるとは限らない。
今回は幸い、たまたまそれが一致していただけである。



そういう意味において、
今回僕は最良の道を選ぶことができたと思う。

最後の決め手は衝動的なものではあったが、
自分自身、できる範囲をやりつくしたつもりである。



謝辞

この内々定をいただくまでに、
その友人に限らず全国様々な人にお世話になったのは言うまでもない。


どんなときでも揺るがずに話を聞いてくれた両親。
あんたは大丈夫よ、と励まし、かつ東京の宿を提供してくれた姉。
君はなにがしたいの、と常に僕の将来について問うてきた教授。
ESの添削など、就職活動のいろはを教えてくれたM研、MM研の先輩方。
共に説明会や面接に参加し、お互いを鼓舞し合った同期の皆。
たまに吐く弱音も逐一反応してくれた研究室の助教、後輩達。
自分のことに就職活動を心配してくれる既に卒業したサークルの同期の皆。
いつもいつも新しい刺激と、落ち着ける場所を提供してくれる id:hat-tun, id:yaotti, id:yuku_t
悩んでいるときに一晩中とりとめもない弱音を聞いてくれたid:hxmasaki

その他就職活動中に関わった全ての人に最大限の感謝を込めて。

ありがとうございます。

京都以外にいる人も、また個別に直接伺えたらと思います。



これから

もちろん、就職活動はスタートラインに立つ為の活動であり、
それだけでは別に何かをなした訳ではない。



いつか自分が死ぬ直前に、

「やはり、これは最良の道であった」と言えるように、

この残された学生生活も、それ以後も変わらず努力を続けていきたいと思う。

「また」「どこかで」

東北関東大震災とか、それにともなう就職活動の延期とか、
そういうものに目が向いていたこともあり、あまり意識していなかったけれど、


気がつけば明日は先輩方の修了式。

明後日には後輩達の卒業式。

4 or 5 years

今日、サークルを卒業する方々へのメッセージを書いた。
先輩達とは5年間、後輩達とは4年間という比較的長い付き合いだった。


すらすらと思い出が綴れる人も入れば、
なかなか一般的なことしか書けない人もいてちょっと苦労したけれど、

総じて、この充実した大学生活を送れたのはまぎれも無くこの人々のおかげ。



拙くはあっても、手を抜かずに書ききった。

ある先輩とは

そこまでプライベートに関わったりもしなかったけれど、
個人的に勝手に慕っていた先輩もちょうどメッセージを書きにきていた。

早く書かねばと必死だったのであまり言葉を交わすことも無かったけれど、
久々だったので嬉しかった。

先輩が大体書き終えて帰ろうとしたとき、

僕:「あ、お疲れさまです。」

先:「お疲れ。じゃあまたどこかで。」

と、さらりと挨拶をした。

「また」とは「いつ」か、と思いながら、挨拶をした。

また

確かに、よく考えてみればこの卒業、修了でもしかしたら二度と会わない人もいるのかもしれない、と思うと何か不思議な感じがした。

これは去年にも感じた感覚だけれど、
なにか今年は違う。

去年は、ほんとに会えるのかな、遠くに住んでいたらどうしよう、
そもそも連絡先とかわからないかも、なんて思っていたりした。



でも、今年はそんな気はしない。

会おうと思えばいつでも会えると。

去年に比べて「また」をすぐにつくりだせる気がした。



それはたぶん、
この一年で既に卒業して全国に散った同期と何度も会っていたり、
twittermixiなどで逐一存在を感じられていたからではないかと思う。

どこかで

最近、中学の同期や高校の同期がどこで何をして活躍している、とかを耳にする機会も多い。

その度、なんだか自分も元気をもらえる。




今回卒業する人たちも、とても素晴らしい人たちばかり。

きっと、

これから日本に限らず世界中で活躍するに違いない。


そういう人たちと細々でも縁が繋がって、

時々一緒にお酒を飲みながら、

その人達の活躍を自分のように喜べるのは、


とても贅沢ではないかと思う。





皆様、

ご卒業おめでとうございます。

9回の裏、2アウト。

今年の甲子園も残り一試合。

今年もたくさんの試合が繰り広げられ、
さまざまなドラマが生まれている。


しかし、僕にとって甲子園といえば、ある年の大会をいつも思い出す。

1998年、あれは小学5年生の夏。

蝉がけたたましく叫ぶ、昼下がり。

蝉の声に負けじと声を振り絞る、アナウンサー。


ブラウン管の先に広がる緑色の芝、茶色のグラウンドの上に白い線を描く、一人の投手の指先から放たれたスライダー。


歓声に沸く、甲子園。

ちょうど、横浜高校春夏連覇を成し遂げた瞬間だった。

小学5年生

僕が少年野球を始めたのは、小学5年生の秋。

夏に見た、夢のような試合がきっかけだった。


PL学園、延長17回の熱戦。
明徳義塾、終盤8、9回の大逆転。
京都成章ノーヒットノーラン

当時、某パワフルなプロ野球ゲームで野球に対して興味があった小学5年生の僕にとって、
マウンド上で一人強烈に異彩を放つ松坂大輔は憧れ以外の何者でもなかった。

仮にその数ヶ月後、激しい後悔の嵐に見舞われることがわかっていたとしても、
このときの気持ちを止めることができたかどうか、わからない。


大会が終わってすぐ、僕は少年野球を始めることを決意した。

挫折

始めてすぐは野球ができるのが楽しくて仕方なく、喜び勇んで練習に参加していた。
今思えば恥ずかしい話ではあるが、毎日自分の活躍する姿を思い浮かべては眠りについたものだった。

しかし、現実というのはそれほど甘いものではなく、
初めて先輩後輩がいる環境、強烈な指導者のいる環境に慣れることができず、
次第に野球をすることすらも楽しくなくなっていった。

さらに、当時の僕は今以上に小心者で、先輩に何か小言を言われる度、監督、コーチに怒られる度に萎縮してしまい、
さらにミスを重ねて怒られるという悪循環に陥っていた。


基本土日の練習が主であったため、月曜日が一番気分が軽く、週末に向けて次第に気分が重くなって行ったことを今でも鮮明に思い出せる。
病は気から、と良く言われるが、まさしくそれを体現するかのように百日咳のような症状に陥り、咳は止まらず、通学のときに毎日吐いていた。

ある日の帰り道、後輩に「野球辞めたくなったことある?」と聞いたことすらある。


思えば、これが人生で初めての、そして最大の挫折だった。

挫折と、

何度も何度も押し寄せてくる辞めようかと思う時期を通り越し、夏が来て、冬が来て、6年生も終盤に差しかかった。

どれだけ下手くそでも、監督達は僕をレギュラーとして使ってくれた。(6年生が少なかったというのもあるが)

関西で優勝した先輩達ほどではなかったが、
地味に小さな小さな地区では優勝をしたこともあった。

別の野球チームの友達もできた。

もう、終わりだと思うと、さすがに寂しくなった。

最後の打席は、確かサードゴロだった。

最後の試合は、エラーをしなかった。

色々あったけど、最後までやり通した。





おおきく振りかぶって

僕の所属している研究室には、ソフトボール大会や野球大会がある。
少年野球ではヘボのヘボのヘボだった僕でも、多少の経験があるだけでアドバンテージになる。
前期も前の研究室と共同でソフトボール大会に出るなどし、久しぶりに熱くなったものである。


その影響か、先日ふと「おおきく振りかぶって」という野球のアニメを見た。


このアニメの内容自体の説明は省かしてもらうが、
印象に残ったシーンがある。


それは選手の母達が試合に来て応援していた所である。
母達は朗らかに「〜君は良く打つ〜」「〜君はしっかりしている」などといった会話がなされていた。


ハッとした。


少年野球でも、練習や試合の応援に保護者が駆けつけるのは通常である。

僕の母も例外ではない。


今までは気にならなかったが、そのとき母はどのような会話をしていたのだろうか。

打席に立てば三振してチャンスをつぶし、
守ればエラーをしてピンチを招く息子を見ながら、

チームに迷惑をかける息子を見ながら、

母はどのような気持ちで応援をしていたのだろうか。



きっと、居心地が悪かったに違いない。
あの母のことだから、他の保護者に謝っていたに違いない。

それでも、

そのような振る舞いは僕には微塵も見せることなく、

応援し続けていてくれたのだ。

三振をしても、エラーをしても、応援し続けてくれていたのだ。

現在

たまに電話が来る。

父の携帯からだ。

しかし、その声はほとんどが母である。

携帯を持たない母は父の携帯を借りて電話をかけてくる。



近況はどうだ、たまには帰ってきなさい、いや、先週帰ったやん。





今は、昔に比べて三振することも、エラーをすることも少なくなった、はず。
母も、恐らく喜んでくれる機会は多くなった、はず。

昔持っていたバットとグローブは、紙とペン(むしろディスプレイとキーボード)になってしまったけれど、
立つ舞台は変わってしまったけれど、
小学生時代よりも、少しでも孝行はできているだろうか。


ススメ

毎日辞めたいと思っていたあの少年野球があったから、自分の無力さを知り、
時を経て、親への感謝の念を改めて感じた。


その少年野球をやり通したから、
今でもたいていのことは乗り越えられる。


良い結果を残せることは良いことである。
しかし、良い結果を残せなかったからといって、
必ずしもそれが無駄な期間であったとは限らない。



たとえしんどくても何か物事をやり通すことの大切さ、
そしてそれに取り組むときに、
話を聞いてくれる人の存在、喜んでくれる人の存在、励ましてくれる人の存在の大きさ、


そんなことに改めて気がついた、8月の某日でありました。

紙の上で

いつの間にか5月も終わりで、

修士の忙しさにかまけていた僕が久しぶりに明けたポストの中に、

いつものピザや新聞のビラの中に、数通、いつもと違う色合いの郵便物があった。


プレゼント

2010年、3月24日。

僕は大学を卒業した。

僕自身は修士課程に進むため、そのまま大学に残るのであまり京都を離れるという感覚はなかったが、

この春に就職して京都を離れるサークルの友人達にとって、

卒業はやはり大きな節目だったようだ。




その卒業に際し、大学院に進学する皆から、卒業する友人達へ、何か贈り物をしようという企画が持ち上がっていた。

贈り物は、皆のメッセージを書いたぬいぐるみと、この4年間の思い出をつめたDVD。


ぬいぐるみは無事に卒業式後にあった卒業旅行で渡すことができたが、

DVDだけは皆の収録時期が合わずに間に合わなかった。


それでも、なんとか渡そうと、半ば心が折れそうになりながらも空いてる日を見つけては皆で集まり、今月の中旬にようやく完成。

すぐさま、全国に散らばる友人達のもとへ、そのDVDを送った。





ポストに届いていたのは、そのお礼の手紙だったのだ。


ダンスを

部屋に戻り、早速その手紙に目を通してみた。

久しぶりに、手書きの手紙を読んだ気がした。



文字は踊るように紙の上を走る。

爽やかな友人の力強い「感謝」の二文字。

快活な友人の澄んだ表現。

一文、一文節、一文字それぞれに書いた人の個性が出て、

読むたびにその人の声が聞こえ、笑顔が浮かんでくるようだった。



読み終わった後、

じんわりこみ上げてくるものを抑えることができなかった。


作成したDVDを喜んでくれたことももちろん嬉しかった。

でも、自分にこうやって自筆で手紙を書いてくれることがこんなにも嬉しいことだとは、今まで思わなかった。









読み終えて、封筒を見返すと宛先の「町」が「長」になっているという間違いを発見。











とても素敵な手紙に、少し気分が軽くなった。